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経歴・プロフィール
経歴
井上義行(いのうえよしゆき)
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- 小田原市立豊川保育園卒園
- 小田原千代小学校・中学校卒業
- 私立明徳学園相洋高等学校卒業
- 国鉄(現JR)、国鉄機関士
- 日本大学経済学部(通信)卒業
- 竹下内閣-内閣府(国家公務員)
- 宮沢内閣-新官邸整備用地専門職
- 橋本内閣-内閣第一係長
- 小渕・森・小泉内閣-内閣官房副長官秘書官
- 小泉内閣-内閣参事官補佐(拉致問題、企画・調整担当)
- 小泉内閣-内閣官房長官秘書官
- 第一次安倍内閣-内閣総理大臣首席秘書官
- 麻生内閣-千葉科学大学客員教授
- 第二次安倍内閣-参議院議員
- 自由民主党会派に所属
- 自由民主党最大派閥細田派(清和政策研究会)所属
- 国土交通委員会理事
- 拉致問題等特別委員
- 国民生活・経済に関する調査会 委員
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プロフィール
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小田原市桑原の市営住宅生まれ、小田原市立豊川保育園、千代小・中、相洋高校卒業。国鉄に就職。
夜行寝台列車に乗務し機関士となる。機関士をしながら日大経済学部(通信制)を卒業。卒業論文「国鉄の民営化について」
を書くうちに行政への道を意識しだす。その思いを果たすべく内閣府に転進。
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官僚となり初出勤、椅子にすわるや上司から「国鉄の人間に行政ができるのか」
と罵倒されるも「結果で示す」と、戦後処理問題、公益法人改革、新官邸整備、初の海上警備行動のマニュアル作成、
拉致被害者の帰国などの歴代内閣の重要な仕事に地道に取り組み、「結果」を出した。この間、父親が交通事故で植物人間状態になり、
介護しながらの勤務も経験した。
そして官邸へ。その活躍は日経新聞一面で大きく取り上げられた。
内閣官房副長官秘書官時代に、安倍晋三氏と運命的に出会い、北朝鮮日本人拉致問題を担当。
外交経験のない中で、国内では外務省と戦いながら被害者早期帰国に向け精力的に取り組み、1年間の極秘交渉の末、
単身で北朝鮮に乗り込み、第ニの小泉訪朝を実現。拉致被害者家族の帰国実現を果たした立役者。
それでも北朝鮮への出国前夜は「帰って来られないかもしれない。これが最後の会話になるかも…子ども達のことは頼む」。
と家族に連絡。この仕事ぶりを、後に総理大臣になった安倍氏は「寝食を忘れて、私のために、そして国のために情熱を持って仕事をしてくれる」と絶賛。
第一次安倍内閣では、内閣総理大臣首席秘書官に就任。異色の経歴から安倍内閣の主要政策である「再チャレンジ制度」の象徴的な人物ともいわれた。
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秘書官時代には早急な改革を進めた。井上は「政治は50年後に評価されるもの」と言い切る。
井上の強い意志と行動力は時に抵抗と嫉妬を生む。このことが、後に一票もない、世襲でもない井上が政治を目指す動機となった。落選も経験。落選が井上をさらに大きく育てた。
井上は政治家になり、信頼と調整力を身につけ、結果を出していく。
平成25年、参議院議員に当選。当選直後には、家庭の経済に影響されず、全ての子供にチャンスを与えるいわゆる「教育減税法案」を議員立法として取りまとめ、議員10人以上の賛同を得て提出。その結果、給付型奨学金の導入を実現し、また、教育無償化議論の火付け役となった。
また、最大の政治課題であった国民の安全・安心のための安保法制制定では、大反対の中、自身の政治生命を賭け、与野党間を駆けずり回り取り纏めに奔走し、最後は閣議決定にこぎ着け、与野党の合意を成し遂げた。
1年生議員としては破格の活躍と報道などで大きく取り上げられた。
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その他、数多くの実績を重ね、永田町では"平成のニ宮金次郎”と言われる声が聞こえてくる。
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